隊制決定

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 二十八日駿府の宿所で十二、三名が寄り集まり、隊制を決める首脳会議がひらかれた。【取締役】隊長に井上藩家老伏谷如水を、との案が出たが、すでに彼は駿府差配の要職にあったことや、報国隊の独自性を主張する者もあったゆえであろうか、結局は隊長を置くことかく五人の取締りをおいた。桑原真清・杉浦大学・鈴木覚之助・森縫殿之助・大久保初太郎がそれである。いずれも地方の神職界で伝統的な権威をもつ格式の高い神社の神主で、報国隊結成より従軍にいたる過程で、大きな役割をはたしたものが選ばれたといってよいであろう。
 【合議制】取締りについでは、水戸浪士杉浦鉄五郎が取締助役に、浜松藩士志賀孫兵衛は司令士、同じく篠原格之助は司令士差添としたように、武士は軍事顧問にとどめ、独裁的な体制をもとめず、中心は神主だけの合議制を選んだ。これは報国隊が神主のための隊として、その主体性を貫こうとしたとみてよいだろう。
 目付兼使番には高辻三郎・加茂備後・長谷川権太夫・浜松田町分器稲荷社の神主佐藤勘解由・下堀の神主竹山主馬(庄屋竹山左衛門の息子)ら、周旋の役には木部次郎ら、小荷駄の係には天王の神主竹山民部(庄屋竹山孫左衛門、池田庄三郎の兄)・下堀の神主竹山主水(下堀竹山金左衛門家)、市野宿の本陣斎藤伝兵衛らがあたった。やはり豪農商としての日ごろの経験を活用しようとしたのであろう。こうして隊員の士気も大いにあがったに違いない。しかしこの隊制も長くはつづかなかった。
 【隊員分掌】隊員の分掌が発表された三月二十九日、報国隊は富士川警衛のため、岩渕に出動するよう命令をうけ、四月一日に駿府を出発、紀州兵にかわって岩渕警備の任務についたが、三日杉浦大学が駿府から急行し、杉浦鉄五郎が取締助役を不服として、自ら報国隊の隊長になろうと、総督軍内部で画策していることを報じた。総督府の要人の中には、杉浦鉄五郎の要求を支持し神主を悪くいう向きもあったらしい。この件に関して鉄五郎を食客としておいた桑原真清は大いに奔走するところがあったが、逆に真清の言動が不謹慎であるとして、総督軍内で問題とされるにいたったので、真清とともに奔走していた杉浦大学は、隊員と相談のため急ぎ岩渕に来たものである。【隊長決定】国元からも幹部の大久保忠尚らが岩渕に出張、協議の末、八日杉浦鉄五郎が報国隊隊長に就任した。