【隊長排斥】七月二十八日御守衛大砲隊は解かれて本隊に復帰し、以後一体となって服務したが、九月十三日隊内規則取定めのための会議で、隊長の杉浦鉄五郎排斥の理由六項目をまとめ、これを軍務官に提出した。六項目のうち最大理由は隊長杉浦鉄五郎の独断専行にあった。隊内風規の乱れも彼の態度に由来するとされた。詳細は略すが軍務官大村益次郎らの支持をえて、国元の報国隊幹部との緊密な連絡のもとに、大久保初太郎らは隊長に対する隊員の不満を利用して隊長を排斥し、これを梃子(てこ)に隊内の気風を一新し、天皇制国家創出への忠実なる奉仕を完了しようと考えていた。大久保は新しい行動に移ることをひそかに決意したのであろう、九月六日堀江提一郎と名を改めた。【隊長追放】十三日の会議をへて十九日杉浦隊長は被免、追放された。この事件は報国隊が本来の庶民的な性格にたちかえり、神官層としての純粋性を高めることによって、神官らの勤王運動を一層強化しようとしたものと評価してよいであろう。
【追放の真相】しかし戊辰内乱の勝敗が確定した段階においては、もはや水戸藩らは薩長倒幕派にとって、邪魔者となったのであろう。その意味からも杉浦隊長追放事件は、一般隊員の反杉浦情勢を拡大し、これを利用することが考えられたのではないだろうか。これはいかにも新政府が隊員の要求を入れ、譲歩したかのように見えるが所詮見せかけにすぎなかった。利用できるうちは利用し、邪魔になれば棄てる新政府の論理は、民主化要求を強めてきた報国隊など他の民兵諸隊同様、できるだけ早い機会に口実を設けて解散させることが望ましかった。