隊員たちのあいだに、新政府の威光をかさにきたようなところが、まったくなかったとはいえない。とすれば徳川氏の家来でなくても、報国隊員の振舞いを内心にがにがしく思う者も、あったのではないだろうか。このように隊員側と、それをとりまく旧権力者側とのあいだに、感情的におもしろくない空気が醸成されたことは、容易に想像できるであろう。そして遂にもっとも恐れていた、隊員への暗殺事件が三保や草薙でおこった。これらは旧幕臣の無頼の徒の襲撃とはいえ、隊員たちにはすこぶる脅威となった。赤心・報国両隊はただちに政府に救助を願い出た。
事件は十二月十八日と翌明治二年正月四日の夜におこった。そして正月十日には、早くも大村益次郎の対策伺書が出され、十一日はこの処置を報ずべく、遠州にむけ早馬がとばされた。【東京移住案】この処置の内容は、徳川氏からの脅威を逃れるには駿遠両国から、隊員を移住させるのが最上の策と考えられる。ついては東京上野の山に昨年来の戦死者を祀る霊祠を建て、赤心・報国両隊員に春秋の招魂慰霊祭をやらせれば両全の策と思われる。神職らの手当には、もと上野東叡山寛永寺の寺領一万三千石を霊祠に寄付し、その高のうちからまかなうようにしたい、という趣旨のものであった。