【大久保初太郎】このように時を移さず、具体案が作製された裏には、軍務官の大村益次郎・香川敬三と、大久保初太郎とのあいだに、密議がかわされていたのではないかと思われる。父忠尚にあてた初太郎の手紙(明治元年十月三十日付、大久保家所蔵)によれば、すでに徳川氏と隊員との紛争を予想して替地を用意する計画のあったこと、隊にきずのつかないうちに、有栖川宮凱旋にあわせ、隊員たちを表彰して郷里に帰し、事あるときは喜んで立ちあがるようにはからったと述べている。帰国に際して報国隊に授与された感状も、隊中で誰が中心者ということはないとして、感状の本紙は封印したまま、遠江一の宮小国神社の宝庫に納めるのが適当であろう。隊員各自にはその写しを下される、と香川敬三が隊員に申し渡し、そう実施したのも、実は大久保初太郎の建策にもとづいていた。大久保をはじめ桑原真清・加茂備後らが、軍務官に残留したことも、同じ手紙の中で、おこりうる徳川氏の不法の振舞いにそなえてのことだ、と明言しており、大村益次郎とのあいだに深い謀計がうちあわされていたといわざるをえない。