事件のおこることが予測され、しかも移住さえ考慮されながら、両隊員をあえて帰国させたのは、一般の赤・報両隊員のあずかり知らぬことであった。
報国隊員がちょうど遠州に帰った十一月十五日、大久保利通が水戸孝允を訪ね、勝海舟がいうのには、さる九月天皇御東幸の際、徳川氏へ駿州警備の厳命が出されたことは、徳川家臣にとって実に意外なことであった、朝廷の恩威に敬服しないものはなかった、と述べている(『木戸孝允日記』)。明治天皇御東幸にあたって、駿河に不穏の風説があり、徳川氏を警戒してとくに警備兵を派遣すべきだ、との意見もあったが、それでは徳川氏の名のたつところがない、として水戸はこれをしりぞけ、断然徳川氏に駿州警備を命じたのであった。【徳川藩の反応】このように政府の処置と徳川藩の態度が、この時点にあらためて考慮の対象とされたことは、決して偶然ではなく、赤・報両隊の帰国についての徳川藩の反応ぶりが、新政府首脳にとってやはり注意されていたからであったろう。
しかも間近に天皇の京都還御(十二月二十二日京都着)と、あくる明治二年の春はやく、ふたたび天皇の東京行幸が予定されていたから、一層徳川藩の態度が注意されねばならなかった。このような時にあたって、あえて行なわれた赤・報両隊員の帰郷は、新政府首脳にとって徳川氏の忠誠の度合いをためすような役割をもたされていた。