東京への移住については、隊員たちのあいだに賛否両論がまきおこった。移住反対論の中心は山本金木らであった。移住論・不移住論の内容は省略するが、赤・報両隊員の移住問題が世間に洩れ始めると、徳川氏は極度に神経をとがらせた。暗殺はもとより、いやがらせの類もかたく戒めて影をひそめた。木戸の考えは、ここでも十分な反応を示していった。徳川藩は赤・報両隊員の東京移住をなんとか、思いとどまらせようと、浜松奉行井上八郎(延陵)や中泉奉行らを通じて、必死の努力をつづけた。
【移住論 残留論】東京への移住をめぐって、報国隊は真二つに分裂し、移住・不移住両者の主張はまったく対立するかのようにみえたが、質的にはともに明治新政府を下からささえ、これを強化する性格をもっていたことにかわりはなかった。この両者の考え方が並び行なわれるかぎり、国家は安泰であった。かくして赤心・報国両隊員は、二年六月のころ、ぞくぞく東京招魂社をめざしてのぼっていった。