赤心・報国両隊員の正式採用は、まず七月八日に浜松諏訪社の杉浦大学・伊平村の神主宮田重郎左衛門・和地村の神主辻村駿河の三名が、招魂社御番として発令され、招魂社司六十二名の発令はおくれて、十一月二十三日になった。このうち報国隊員は三十一名で赤心隊員と同数であった。こうして東京に移住した遠州報国隊の神主たちは、招魂社境内の長屋に住居を与えられ、扶持米をもらって招魂社に奉仕した。しかし小さな招魂社に社司六十余名というのは、あまりにも多数であった。大久保忠尚らの主唱で、職務の余暇に社司の再教育が意図され、三年四月招魂社の近くに「招魂社祭典取調所」が開設された。現在の国学院大学の前身、皇典講究所(こうてんこうきゅうじょ)(明治十五年創設)のはじまりは、ここに芽ばえたのである。いまの靖国神社の祭典の基礎も、多くは招魂社時代の赤・報両隊員の手になったものといわれる。
招魂社は明治十二年(一八七九)六月四日靖国神社と改称、官国幣社(別格官幣社)の格式を与えられ、戦死者を合祀独特の地位をもつにいたった。
遠州報国隊記念碑(浜松市利町 五社公園)