【再建移築】寛文期と前後して浜松地方では、慶安二年(一六四九)薬師堂が新堂から七軒町へ、同四年松尾社の再建、承応(しょうおう)二年(一六五三)西鴨江村花学院馬頭観音堂再建、寛文(かんぶん)二年(一六六二)肴(さかな)町大安寺創建、入野村彦尾の不動堂開眼(かいげん)、同十一年松嶋新田へ天林寺塔頭(たっちゅう)の養仙寺を、米津村へ大通院内安泉寺を移築したことをはじめとし寺院の再建・移築記録が急に多いのが注意される。おそらくこれは本末制度進行による地方寺院の状況をものがたっているのではあるまいか。【由緒書】事実、このころから新寺の取立も困難となり、寺院はその由緒や縁起書を作製し、その格づけを競うようになった、といわれている(辻善之助『日本仏教史』)。浜松地方で住持が家康と昵懇の関係があったと説く例があるのもその現われであろう。【太田氏】また当時の浜松藩は太田氏の時代で、資次は寺社奉行(延宝四年-同六年)を勤め、延宝五年(一六七七)には五社・諏訪明神社の修復を奉行し、西来院築山(つきやま)殿霊屋の修理もしているが、浜松の寺社の由緒書などには領主太田氏の恩比を説くものがしばしば見うけられる。これもそのころの当地方寺院の動きを暗示しているようである。