独湛と宝林寺

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 独湛と遠州との法縁は、引佐郡一帯を知行していた旗本近藤貞用(さだもち)(語石、金指町に陣屋があった)の請いに応じ、寛文四年六月その領内の瀬戸村(引佐郡細江町)の地を相し、初山宝林寺を建立したにはじまる。
 独湛は明の福建の人、隠元に従い来朝し、草深い遠州に在ったが、のち上野に赴き天和二年(一六八二)黄檗山四代をつぎ接衆十一年におよんだ。その後語石再度の請いに宝林寺へもどり、元禄十年(一六九七)二月菩薩戒を開いた。このとき授戒を受けるもの万余におよんだという。念仏独湛とも称せられ、竜文・天瑞などの門弟は三十九人におよんだという(近藤用一「初山竜文坊と禅統和尚」『土のいろ』第十五巻第四号)。宝永(ほうえい)三年(一七〇六)正月二十六日七十九歳で宇治獅子林(隠居所)で示寂した。宝林寺には喜多元規筆の独湛画像
が残っている。