独湛によって、その基礎が固まった遠州の黄檗宗は、こうして明治にいたるのであるが、中でも初山宝林寺はその中心であり、四代石窓(せきそう)・五代法源(ほうげん)・八代楚州(そじゅう)・二十二代禅統(ぜんとう)はよく人に知られている。このうち法源をのぞく他の禅僧は大雄庵(だいおうあん)(当市天神町)に関係がふかいので後述することとして、ここでは法源について述べる。というのは、石窓の時代に後嗣として由緒ある初山の法燈(ほうとう)をつぐ人物がみあたらない。【法源】このとき檀越(だんおつ)近藤昔用(ときもち)の請いによって独湛が推薦したのが法源であったからである(『法源和尚住初山語録』)。「行末はさもあらばあれえにしあればけふ初山に墨染の袖」とは当時江戸に在った法源が、その知遇にこたえて遠州入りをしたときの感懐であった。ときに宝永元年十一月で、その晋山式に白須(しらす)村(当市白洲町)では地震のため改鋳した村内八王子宮の吊鐘の鐘銘を法源に依頼したと伝えている(この鐘は白洲大江寺に保存されていたという)。
法源はまた遠州における黄檗教線の伸張につとめ、実性寺・大智寺(廃寺)・実相庵(廃寺)を創めている。
【舟岡山隠栖】実性寺は半田村(当市半田町)の長泉庵を正徳元年(一七一一)九月改創したもの、また大智寺(当市半田町)は舟岡山にあり法源隠栖の地であった。法源はこの舟岡山の風光を愛し、六十三歳の正徳三年八月ここに移り詩歌と念仏三昧(ねんぶつさんまい)の清雅な日を送ったという。実相庵は上大瀬村(当市大島町)の檀徒名倉半兵衛(良久)の請いによって享保四年(一七一九)同所に結んだ草庵で、同十二年冬ここに寄寓している。
法源は初山五代として遠州に在ること十年、享保十四年十一月に上京し京都宗円寺で翌十五年二月八日八十歳で示寂している。遠江からは覚仙・北堂の二門弟が上洛し、師の髪爪をいただき舟岡山に「臨済正宗三十四世当寺開山法源印老和尚髪爪塔」の石塔を築いて、その菩提を弔った。法源は後水尾天皇の皇子といわれるがその確証はない(鈴木黄鶴『法源禅師の研究と語録』)。
その著に『法源和尚住初山語録』があり、法子二十三人といわれている。このうち覚仙は大智寺二代を嗣ぎ、北堂は小池村(当市小池町)に長福寺を創めたという(増田又右衛門「法源禅師開創舟岡山大智寺跡」『静岡県史蹟名勝天然記念物調査報告書』第十三号。『浜名郡史』には「延宝四年九月天瑞開闢」とある)。