馬込(まごめ)村は俗に法印村ともいわれ、修験道を行なう山伏が住み加持祈祷をしていた。伝えによると宝徳二年(一四五〇)から定住するようになったという。全盛期の元禄十六年ごろには永教院・観音院・玄宝院・文殊院をはじめ正宝院・常楽院・覚寿院・両宝院・養学院・智教院・吉祥院・金剛院・大宝院・寿命院・般若院など二十三院を数えたが、幕末には十六院に減じたという。享保四年に山伏二十三人(『国領組諸色覚帳』)。享保七年九月山城国宇治三宝院から爾後滅罪法事は山伏仲間で執行するよう指令をうけている。法月・庭田の両氏は古い法印家であった。なお浜松城の釜払いは毎年正宝院が勤めるのが例で(塚本松平『馬込町沿革誌』)馬込村は元旦門飾の葉竹を浜松城へ献納するのを恒例としたという。