供養といえば、千体の小さな仏像を刻むことも行なわれた。安間新田(当市安新町)普伝院の千体仏をまつる堂では、元禄のころに一千日の念仏を行なったが、その収益は拾壱両もあったという(『宝暦二年千体堂建立并諸入用付立帳』)。宿芦寺の千体仏も知られていた。
【百万遍】また百万遍念仏(百万遍ともいう)といって、信徒が弥陀の名号を唱えながら千八十珠の大数珠(じゅず)を百回繰りまわす仏事も行なわれた。入野村(当市入野町)北脇・田畑では、江戸中期ごろからはじめた百万遍を月一回ずつ家々を順廻りに今もつづけているという。ねんごろに念仏をとなえる、そうすれば後生を得ると信じられたからである。