お鍬祭

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 お蔭まいりの前提となったのがお鍬祭といわれるが、遠州方面では明和三年(一七六六)浜名湖西岸の新居町からはじまったと伝えられる。このときは指南番が浜松まで出張するというさわぎであった。つづいて都田村(当市都田町)方面では「明和四年亥年、此年伊勢磯部様より御鍬祭り初り」、五月には神主文右衛門の伜市兵衛が御鍬神を迎えに下向し、上下都田村をはじめ近隣の村々は大神宮御鍬まつりなどと染めぬいた幡(はた)を作ったり神輿の注文をした。それには大工二十五人壱両三分かかった。さて祭の当日は見物衆にふるまった酒は四石八斗(約八七〇㍑)、幡の数は全部で六百本ほどで、たいへんな賑いであった。「色々きみゃうふしぎ有」、中野村六左衛門・向山村伝五右衛門の屋敷には米が降り「金銀のすなは不残ふり」、村さかいはもちろん「瀬戸山両方・浜松道大方・宮口・笠井道出口」へも大注連(おおしめ)を張りめぐらしたという。また明和八年には入野村でも御鍬神を志都呂村(当市志都呂町)からお迎えし「豊年祭りとて、拾束六わで五斗八升むいても舂いても五斗八升と噺し、うたい舞、輿を荷ひあるき、酒は村々にても通る者にむりに呑せ」(「変化抄」『浜松市史史料編四』)、大さわぎで仰山(ぎょうさん)なことを「お鍬さまのようだ」といったという。