つぎにお蔭まいりであるが、文政十三年(一八三〇)浜名湖北岸気賀(きが)から三ケ日(みっかび)方面にはじまり、入野村では「当村の子供少々銭持出」(『変化抄』)すものがあらわれ、これと前後して浜松方面へも波及したという。翌天保二年には都田村方面では「御かげ参はやる。中部へん男女残らず二軒屋通り山中迄同断」にはやり、同村二軒屋市郎兵衛宅では大神宮の仮宮を造り参詣の者へは弁当をふるまい駕籠(かご)で瀬戸へ送りとどけるという有様で、中郡(なかごうり)方面や内野では三方原(みかたがはら)へ茶屋を設け弁当の施行をしたという。