慶応三年(一八六七)には浜松地方でも卯年のお蔭年といって、各所にお札が降った。それは白須賀・新居辺からひろがり、浜松では平田(なめだ)町や鍛冶町へ鳥がお札をくわえて下りるという奇瑞があり、板屋町の足袋源では病人があったが施行をして病厄をまぬがれたという(渥美実「西遠地方におけるお鍬まつりの流行」『土のいろ』復刊第十号)。有玉村では深夜樹木の枝とか垣の上などに秋葉・伊勢・津島・熱田さまなどのお札が降った。また同村では赤い手拭をかむり異様な身なりをしてにわか踊りをする者があるし、女は相撲取のような髪を結って浜松の秋葉社に参る者があるというわけで騒ぎも大きかった、と伝えられている(中道朔爾『遠江積志村民俗誌』第六章第七節参照)。
抜けまいりといいお蔭まいりといい、平素の生活から解放された歓びがあったわけで、これには関所ももてあまし富める者は接待に奔走したのである。ここにわずかずつではあるが、世相の変化を読みとることができよう。お札降りに民衆が乱舞している間にも、明治という時代はすぐ隣りまで来ていたのである。
半田町の六所神社には「お蔭大明神」が合祀されている。