国頭と春満

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 浜松の五社と、その南隣に鎮座した諏訪社とは、江戸幕府のはじめから徳川氏の崇敬が厚く、それぞれ三百石の朱印が付せられた(前述)。杉浦国頭は元禄の末ころ社殿修繕の願書を幕府に提出して、その補助をうけるため江戸に滞在中、元禄十四年(一七〇一)二十四歳のとき、杉若柯求について和歌を学んだ。また同十六年江戸神田明神の神主芝崎宮内少輔好高の紹介で荷田春満に面会、その歌会に出席し、五月六日正式に入門して和歌の指導をうけた。春満の門人約契録元禄十六年五月六日の条に「信濃守従五位下藤原朝臣国頭」と記されている。国頭は師春満に将来を嘱望され、春満の姪羽倉雅子(はぐらまさこ)(のちの杉浦真崎)を妻にむかえた。
 国頭は春満の歌会に度々出席し、熱心に和歌を研究した(『古学始祖略年譜』)。【両吟百首】まず宝永五年正月十九日に出席、二十三日には春満とともに百首をよみ、『両吟百首』が成立している。また二月十三日芝崎好高家で行なわれた一日千首の歌会に、真崎も出席している。翌六年には春満から『愚見抄』『和歌雑集一巻』『てにをは伝一巻』『七夕七首歌合一巻』などを借りて写し、同七年には『古今和歌集』の伝を授けられ、有職故実(ゆうそくこじつ)にも通ずるようになった。