柳瀬方塾

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 【隠口先生】「はつせ路や初音聞まく尋ねてもまだこもりくの山ほととぎす」の和歌をよみ、京都において名歌として評判になり「隠口(こもりく)先生」とよばれ、自らも隠口の翁(おきな)と称したという柳瀬方塾は、貞享二年(一六八五)浜松神明町の呉服商柳瀬小左衛門の長男として生まれた。字を美仲(よしなか)、通称を小左衛門という(森繁夫『隠口先生』)。方塾は国頭中心の歌会には毎回出席し、また自宅でも数回歌会を催し、国頭の門人中主要な一人であった。なかでも享保七年(一七二二)五月一日には春満を迎え、国頭ら十人が集まって自宅で歌を詠じた。【理津女 多見女】妻理津女(号滋性)・娘多見女心また歌会へ度々出席している。
 方塾の墓碑銘によれば、のちに家を養子の方恒にまかせ、歌道修業のため京都にのぼり、春満および大納言武者小路実蔭(むしゃのこうじさねかげ)の門に入り、許しを得て多くの人の和歌を添削した。元文四年夏には友人に招かれ、江戸に出て和歌を講じたが、その歌は近世風で、しかも復古の志があり、議論ははなはだ高尚であったので人々はみな感服したという。半歳の間に門人はますます増加し、競って教えを乞い、江戸の歌壇に新風を吹き込んだといわれる。方塾は翌五年(一七四〇)五月十七日没、享年五十六、墓所下谷(東京都台東区下谷)池之端教証寺。(柳瀬方塾墓碑銘)。「隠口先生美仲甫之墓」と刻んだ方塾の墓碑は、昭和六年十月、東京府から史蹟として指定された(『教証寺誌』)。

柳瀬方塾筆懐紙(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵)