方塾の墓碑銘によれば、のちに家を養子の方恒にまかせ、歌道修業のため京都にのぼり、春満および大納言武者小路実蔭(むしゃのこうじさねかげ)の門に入り、許しを得て多くの人の和歌を添削した。元文四年夏には友人に招かれ、江戸に出て和歌を講じたが、その歌は近世風で、しかも復古の志があり、議論ははなはだ高尚であったので人々はみな感服したという。半歳の間に門人はますます増加し、競って教えを乞い、江戸の歌壇に新風を吹き込んだといわれる。方塾は翌五年(一七四〇)五月十七日没、享年五十六、墓所下谷(東京都台東区下谷)池之端教証寺。(柳瀬方塾墓碑銘)。「隠口先生美仲甫之墓」と刻んだ方塾の墓碑は、昭和六年十月、東京府から史蹟として指定された(『教証寺誌』)。
柳瀬方塾筆懐紙(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵)