[浜松の和歌会]

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 【月並歌会】浜松には和歌を詠ずる者がしだいに増加したので、国頭は享保五年(一七二〇)十一月から毎月一回歌会を催した。【和歌会定】これを月並歌会と称えるが、その開催の趣旨・目的については『杉浦国頭家和歌会留書』(岡部家蔵)のはじめに「和歌会定」と題した一文に詳しいので、つぎに記してみよう。
 
「   和歌会定
歌ににたるこしをれのことの葉をつゝりもてあそふ事も、今は三とせ四とせにそ成侍りぬ、しかはあれと人々の家々軒をならへす、道の程も芦垣の間ちかきにあらされは、とみの事には出あはんことの及さるをむなしくおもふのみにて、過行日そおほかりけれは、おとゝしのさいつ年より人々いひかはして、せめて月々にひとひは打むかひわたり、色もなきことの葉なからもてはやし侍らんなと契りてましらひをむすひそめぬ、此日にいたりくる諸人たかひにはしめよりいひさためたることくに、その家々のわさにおこたる市なく、その身のつとめわするゝ事あらすして、此日のましらひにかけさらましとそ契りぬ、友かきの道はしたしくまことあらん事をおもふへからんかし、から人のことにも友は物いひてまことあらん事を聞え侍りぬ、此ましはりはことにおもひて難波のあしかるへき事あらはともにいさめ、吉野の川のよからん筋あらはともにすゝめものして、かれとわれとあらそふこゝろなくたかひにしつめおさめて、月にひとひはましらひたゆへからさらんことをおもふへくといひさため侍りぬ」
 
 以下長文のため省略するが、これは和歌会の規定と趣旨、作歌する人々の心構え等をつぶさに述べたもので、その内容には歌に対する熱情があふれている。
 【出席歌人】和歌会に集まるものの社会層は広汎にわたり、神職にかぎらず、僧侶・郷士・医家をはじめいっぱん商家もあり、それらの主人と共に内儀・娘も参加している。【三十四年】この月並歌会は別表に示すように、享保五年から宝暦三年(一七五三)まで、多少の中断はあるが、ほぼ三十四年間つづけられたのである。このことは遠江においてまことに意義のあったことといえよう。(別表は『杉浦国頭家和歌会留書』による)
 【方法】月並歌会はつねに国頭・方塾を指導者として催したもので、その方法は兼題(数日前に出しておく題)二首または一首、当座(臨時出題)はその都度行なわれ、歌題は人ごとに異っていた。また正月は試筆、次回は会始めと記し、七月七日は七夕の題で臨時の会、夜は七夕月、七夕風などの題で当座の会、八月十五日・九月十三日両夜は月の題で臨時に月見の会などを催した。

杉浦国頭家和歌会留書序文(浜松市東伊場 岡部厳夫氏蔵)

(表)月並歌会年別回数表
年号月並歌会の有無留書の有無月並歌会の行なわれた回数臨時を含めた回数
享保5ありなし不明不明
 6
 7あり14回25回
 81218
 91331
 101217
 117回以上8回以上
 121116
 13なし不明不明
 14
 15
 16行なわれずと推察
 17
 18
 19ありなし不明不明
 20
元文
 2
 3行なわれずと推察
 4
 5
寛保ありなし不明不明
 2
 3
延享
 2
 3
 4行なわれずと推察
寛延ありなし不明不明
 2 
 3不明
宝暦ありなし不明不明
 2
 3