目次
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第七章 文化の興隆
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第二節 国学
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浜松の和歌会
服部保庵
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(6)服部保庵 保庵、諱は景忠、方術・医術をよくし、幽竹子と号した。父弘保は、浜松侯松平和泉守乗寿(のりなが)に仕えたが、不遇で職を辞したという。保庵は姉の夫渡辺友益が早く没したので、その三人の遺児の養育に努めた。のも遺児の一人渡辺蒙庵は屈指の漢学者となった。保庵は享保十二年没、享年五十七。墓所紺屋町心造寺。蒙庵は保庵の恩に報いるため、師の太宰春台(だざいしゅんだい)に依頼して、保庵の墓碑銘を撰文してもらった(服部保庵墓碑銘)。