真渕の家系

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 近世の国学史上重要な地位を占める賀茂真渕は、元禄十年(一六九七)三月四日、遠江国敷智郡浜松庄岡部郷伊場村(当市東伊場)に、岡部政信(定信ともいう)の子として生まれた。この年荷田春満は二十八歳、杉浦国頭は二十歳である。
 【賀茂神主】真渕の遠祖は京都賀茂社の神官で歌人の賀茂成助である。その子孫に師重があり、その娘筑前局が永く宮中に奉仕したので、浜松庄岡部郷を賜わり、局はこの地へ京都の賀茂社を勧請して新宮を斎き(いまの当市東伊場賀茂神社)これを管理した。【岡部氏】筑前局の弟師朝の孫定朝がはじめて岡部郷に住みついてさらにこれを管理し、その子常久が岡部の姓を称した。この後胤が賀茂真渕である(『浜松市史一』四〇三ページ参照)。
 戦国の世となって、遠江の地は今川・武田氏らにおかされ、岡部氏は所領の大部分を失った。しかし政定は家康に従って、元亀三年(一五七二)の三方原の合戦で、神官でありながらよく戦い、その殊勲によって、家康から当麻太郎国行の陣刀と、丸竜の具足を賜わった(「随庵見聞録」『浜松市史史料編二』)。のち慶長六年(一六〇一)にはわずかな旧領の恢復と加領をうけた。【政定】政定は岡部氏中興の人といわれている。
 【岡部三家】政定の後は家系が複雑で、長男政員の系統の二郎左衛門家(中岡部)、次男政次の系統の次郎助家(西岡部)および養子政武(実は政員の子)の系統の長右衛門家(東岡部)の三家に分かれ、所領も三分された。二郎左衛門家管理の賀茂新宮領四石二斗、次郎助家管理の神明領二石四斗、八面荒神社領三石となっているが、長右衛門家も本家から少量の所領を分けてもらったであろう。もちろん岡部郷内の神社管理は岡部家一統である。政武に男子がなかったので、次郎助家の政次の孫政信を自分の女の聟に迎えて養子として、長右衛門二世を継がせたが、その妻が死去し、後妻として長上郡天王村(当市天王町)の旧家竹山家の長女を迎えた。この後妻との間に男子を得たが、早世したので次郎助家の政盛を迎えて養子とし、これを長右衛門家の三世とした。

内山真竜筆賀茂真淵像