真渕の父母

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 政信は和歌をよくし、国頭・暉昌と交わり、享保十七年(一七三二)閏五月、七十九歳で没し、法名を田億宗閑居士(でんおくそうかんこじ)といった。その墓石はいま東伊場岡部与三郎家跡の裏山に現存している。真渕の生母は前記天王村の郷士の女といられ、和歌をよみ、文事に通じた。また真渕の養父政長には『西三紀行』の著がある。【義父政長】これは政長が三州足助(愛知県東加茂郡足助町)方面に旅行したときの紀行文である。全文すこぶる優雅な筆致で書かれている(渥美実「西三紀行と賀茂政長」『真渕翁研究』第二輯)。
 真渕ははじめ政盛の養子となったが、政盛に実子が生まれたので身を退き、そののち次郎助家(政長)の婿養子としてはいった。【岡部の妻】しかしその妻は享保九年十七歳で没したため、真渕は養家を去り、世を儚んで父母に出家を願ったが、ついに許されなかったといわれる。のち十七年、真渕が四十四歳のとき、久しぶりに江戸から故郷に帰り、妻の忌日にはその家を訪ね昔をしのんでいる。【梅谷の妻】享保十年には政長の弟である植田政元の世話で、浜松宿本陣梅谷甚三郎方良の女の婿養子となった。【実子真滋】このことは『旅籠町平右衛門記録』(『浜松市史史料編一』)に「伊場村与三郎(岡部氏)殿子庄助(真渕)殿、享保拾巳年彼参候」とあり、享保十二年妻との間に真滋(ましげ)をもうけ、のちにその妻は古学研究一途の夫真渕に遊学をすすめたといわれている。妻の名については、真渕が梅谷市左衛門(真滋)にあてだ書簡に「おやうこといかゞ候や」とあるところから、その名をおやうとする説がある(岡部譲「賀茂真渕の少壮時代」『静岡県神職会会報』)。【真渕夫妻の墓 教興寺】真渕の法名「梵行院浄阿光順居士」と連記した妻の墓は、もと伝馬町の教興寺にあったが、近年中沢町の浜松市霊地(市営墓地)に移された。法名は「名声院 超弌清寿大姉(ちょういちせいじゅだいし)」といい、「寛延四辛未年九月十日」と刻まれている。

賀茂真淵夫妻墓(浜松市中沢町 浜松市霊地)