[真渕の勉学]

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 【国頭と真崎】真渕は諏訪社の大祝国頭の妻真崎に手習をうけた。このことは真崎の歌集『やどの梅』に
 
「今年きさらぎ岡部氏の子にはじめて手習ふことほぎに雅子(真崎)のよめる歌
 いつしかもはやおひ立て二つ三つけふ書初るみづくきのあと」
 
とあり、この「岡部の子」とは真渕のことである。
 国頭の家ではしばしば詩歌の会が催された(前述)が、真渕がこの会に出席したのは享保五年(一七二〇)十一月の月並会からで、政躬と称し、時に二十四歳であった。享保八年駿河国沼津浅間宮奉納百首歌のなかで、富士の題で師の国頭と並んで出詠している。
 
「ふじのねと世にしればこそ空の上の白きを雪の光とは見れ  藤原国頭
 月かげさす空によそひて朝夕のすがたことなる雪のふじのね 賀茂政藤」
 
 このように在郷時代早くから国頭の教えをうけ、青年修学時代の古学はほとんど国頭の教えをうけたが、上京して春満に入門するにも、江戸に出て在満に教えをうけるにも、みな国頭の導きによった。【森暉昌】また五社の森暉昌にも師事したことは、前述(第七章第二節)のとおりである。このことは「わかかりける時、教えをうけしこと父なせれば」と書いた真渕の暉昌碑文でも知ることができる。
 真渕の若いころの浜松には漢学の徂徠派が強く、この地方の子弟は多くこれに入門した。また春満の影響をうけた国頭・暉昌を中心とした歌道や古学は、地方神職家の子弟に非常な勢いでひろまっていった。こうした雰囲気のなかで真渕も青年時代を送っていたのであるから、その影響をうけたのは当然であろう。