真渕は当時若宮小路(当市大工町)に塾を設けて門弟の教育にあたっていた渡辺蒙庵について漢学を学んだ。真渕が「古道を知るには古典に通じなくてはならない。古典に通じるには古語を知らなくてはならない」と考えたのは、徂徠らの主張を蒙庵を経て学びとったものと考えられる。(蒙庵については第七章第三節漢学の項参照)
【家塾】蒙庵と真渕との関係を知るには、まず蒙庵がいかに地方学界に貢献したかを知る必要がある。篠原村馬郡(当市馬郡町)の藤田伊勢松、真渕の門人内山真竜、真渕の子真滋も蒙庵の家塾に学んだ(小山正『賀茂真渕伝』)。老大家を囲む地方の子弟も多かったことを物語っていて、遠州一円の民心に影響することが多かった。ことに真渕・真竜のような俊才を育てたことは特筆すべきである。真渕が正しく蒙庵に入門したことを判然とさせる資料は少ない。しかし清水浜臣の『泊洦筆話』に「県居翁わかくして遠州にすまゐさせられしをりは、漢学に心をふかめて、渡辺蒙庵に学ばれしに」とあり、また真渕自身もその書簡のなかで「この友節(蒙庵)は、われらも元来儒学の門弟同前にて候」と述べている。