春満は元禄十三年(一七〇〇)以来江戸にあって国学の旗をあげ、世の注目を集めて多くの実績を残し、門弟や後継者を育てて、晩年を送るため京都伏見の稲荷社に帰った。
春満は京都と江戸との往復の際よく杉浦国頭家に宿り、その折歌会が催されたことは前述のとおりであるが、真渕がはじめて春満に接したのは二十六歳(享保七年、一七二二)のときで上京入門したのは享保十八年三月、真渕三十七歳であった。そののち春満が没するまでの四年間師事した。上京した真渕は春満に信任があつく、貴重な研究の成果についても伝授されている。また春満は日本紀や万葉集の研究に力を注いでいたから、真渕もその影響をうけた。真渕は春満にかわって百人一首の講義をしたり、和歌稽古会には講師をしたりしていた(井上豊『賀茂真渕の学問』)。