春満の没後、京都から引きあげた真渕は、古学の精神を天下にひろめようと考え、元文二年江戸へ下ることになった。『古学始祖略年譜』元文二年の条に、
「真渕大人も今年卯月の末つかた京を立て浜松に帰り給へり、かくて民部少輔暉昌・阿波守国満なんと親しき友とはかりて、荷田大人の志をつぎ、古学を天下に弘く伝へむと大志を振起し給ひて、大人の妻子は此里なる梅谷の家に残し置きて大江戸に出給ふなり」
とあり、これによって江戸へ出た動機がわかる。【万葉研究】そののち真渕は一度浜松に帰省し、翌元文三年六月再び江戸に出て万葉会をはじめた。その収穫として真渕の万葉研究は進み、『万葉解』『万葉考』などを完成した。のち芝崎好高宅・根本大炊頭宅・村田春道宅へと移った。春道の子春郷・春海はともに真渕に学んで有力な門下となっている。橘千蔭の父枝直の厚意で北八丁堀に居住したのは、千蔭の指導のためであった。枝直は真渕登竜の大恩人であり、後援者でもあった。