田安家出仕

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 真渕が田安家へ出仕するについては、在満の推薦と枝直の蔭の後援があったからであるといわれている。宗武の古調の主張と、真渕のそれはよく合致して、その庇護によって研究の便宜を与えられた。田安家への勤仕は延享三年(一七四六)真渕五十歳の春であったが、のち前後十五年宗武に寵任された。しかし還暦もすぎたので宝暦十年(一七六〇)十一月に隠居を願い許されている。隠居後も時々和学御用を仰せつけられ、終身隠居扶持をもらっていたようである。これより前真渕の妻(梅谷)が没したので、一子真滋の出府は全く絶望的となった。【養子定雄】そこで真渕は岡部弥平次政舎の子息を養女にすることになり、この島に中根平三郎定雄を聟養子として家督を継がせた。しかし島は宝暦十三年九月に没した。
 真渕は上京してからしばしば帰郷しているが、とりたててあげるほどの旅行をしていない。それは研究と門人の指導とに余日のない生活を送っていたからであろう。【大和旅行】しかし隠居後の宝暦十三年には大和旅行が生涯の大旅行であった。これは大和が記紀万葉の研究対象の地であったからである。【本居宣長】真渕が本居宣長(もとおりのりなが)に一度しか逢えなかったという、いわゆる「松坂の一夜」はこの旅行の途次のことである。この年十二月、宣長は真渕に入門の希望を出していたが、その許可があり、翌年正月には誓詞を送って門人としての礼をとった。