とあって、この文から真渕と梅谷家との関係をほぼ察することもでき、そこには帰郷のよろこびもあり、また悲しみもあった。
師の国頭もこの年の夏他界していた。国頭の妻真崎の嘆きを思いやって、野花にそえて歌を贈っている。
「めがるればうときならひをおもふまにながきわかれとなりにけるかな」
よろこびは八月十日、森暉昌の宅での歌合せ、浜名湖での舟遊びなどであった。八月も末になると、降雨の日が多く、国満の家などで歌合せなどしているうちに九月四日となった。この日は先きの妻が亡くなった日にあたるので墓参りをした。そして氏神賀茂明神に別れの参拝をして江戸に帰ることになった。このときは九月十一日浜松を出発、十七日に江戸に着いた。
岡部家略系
延享二年(一七四五)正月二十三日母は亡くなった。【後の岡部日記 母の展墓】『後の岡部日記』(東帰)は母の展墓のためその年九月十日江戸を出発、十五日浜松に着き、十月二十日すぎ浜松を去る日までの紀行文である。真渕は二月三日母の訃報に接したが、公用のため遅れて帰郷の途に就いた。途中豪雨のなかを急いで浜松に着き、岡部家に帰って父母の霊をおがみ、墓に詣でた。さらに十月十日には国満の家の歌会に出席している。こうして日を過ごしているうちに、江戸からは早く帰るようにとの催促がしきりであり、ついに妻子と袖を分かち、墓に最後の別れを告げたのは十月二十日すぎで、「野べの露消せぬほどにとわざりしわが身のつみぞおきどころなきとまうすを、たゝ松の秋風のこたふるこゑをのみきゝてさりぬ」と述べ、「なくなくもわかれしときをわかれにてわかるゝおやのなきぞかなしき」と、墓前を立ち去りがたい気持ちを歌った。
【真渕と故郷】真渕はその生涯のおよそ半ばを京都と江戸に送った。ことに江戸に出てからは、田安家への出仕や、門人の教育、著述などでその生活は繁忙をきわめた。こうしたうちにも郷里のことを忘れず、そこに住む人々に対して限りない親愛の情を注いでいる。江戸在住中のある年の元旦に、
「こえゆかばわれことなしと甲斐がねのあなたに告げよ春の初風」
と詠じているが、新年を迎えてまず故郷の空に思いを馳せたのである。
また寛延二年(一七四九)五十三歳のとき著わした『万葉解』の序文に、「寛延つちのとみの春きさらぎに遠つあふみの人賀茂真渕、むさしにてしるす」と、とくに自分の郷里の名を記している。【真渕の名】「真渕」という名も遠江国敷智郡の出身で、その地名の「敷智」にちなんで「真渕」と名付けたものであろう(宇波耕策「賀茂真渕先生の郷土愛」『土のいろ』第十二巻第四号)。
このように、遠く江戸の地に住み、国学研究を生涯の事業として、老年に至るまでこれを続けてきた真渕のこころのなかには、つねに深い郷愁の思いが満ちていたのである。
賀茂真淵著万葉集遠江歌考(浜松市立図書館蔵)