[遠江国学の発展]

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 江戸における真渕の活動にひきかえ、郷国の遠州では国学は依然として神官層、浜松町人層の文化にとどまり、文化活動としては真渕の嘆くほど沈滞していた。これは一面それだけ真渕学がまだ郷村内部に浸透する力をもたず、受容する側も十分な条件を欠いていたと考えられる。しかし真渕の死ぬ数年前、初めて村落支配者である大谷(おおや)村(天竜市)の庄屋内山真竜が入門し、いよいよ郷村社会へ国学が入っていく一歩を示した。真竜は深く郷村に根をおろしながらも、神官層や浜松の町人層と連携して、各地に講筵、歌会を開き、その唱導につとめた(高田岩男「遠州における国学の受容とその展開」『史潮』第六十六号)。こうしたことがひとつの素因となって、遠江国学の発展を招いたのである。