真渕没後の遠江国学

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 真渕の学風が遠州に浸透するのは、浜松在住のときよりも江戸へ出てからであるが、江戸の千蔭・春海の優美繊細の歌調をもつ江戸派と、伊勢松坂の新古今調をもつ伊勢派と、郷里の土満を中心とする真渕の万葉調をとり入れた県居派ともいわれる遠江派の三派がある。これらはよく交渉を保ちながら、幕末の国学へと流れていった。もちろん真渕・宣長・篤胤(あつたね)の主軸は動かすことはできない。遠江国学も真渕にうけ、宣長にうけ、篤胤にうけるのである。真渕没後遠州国学は宣長の薫陶をうける門人が多く出た。【伊勢国学】真渕の国学は江戸から伊勢に伝えられ、伊勢国学が遠江へ導入された。宣長は真渕の厳しい薫陶をよくうけいれ、また独自の文献学的方法によって、古事記註釈の大業を完成した。【宣長門人】宣長を慕ってこれに入門したものは数多く、『鈴屋門人録』に示すところによると、その門人の数は全国で四百八十八人あり、遠江では石塚竜麿ら十七人をあげているが、入門順序を示すと、上表のとおりである。享和元年(一八〇一)二月十一日、石塚竜麿・高林方朗(たかばやしみちあきら)・夏目甕麿(なつめみかまろ)・竹村尚規(たけむらなおのり)・高須元尚の五人は、近畿旅行に出発し、鈴屋を訪問した。このことを尚規は『さかりの花の日記』に、
 「松坂にいたりつきぬ、二十一日(三月)はじめて鈴屋大人にあひ奉る、さてもこたひ又しても伊勢へものせしは、すゝのや大人は世にその名高くおはしませば、おしへ子にもならまほしく、かつははやくよりまみえもせまほしかりつるを、二月のをりには、紀の国へものし給ひしほどにてあひまつらざりつれば、またしもしたひこしなりけり」
 
と述べている。竜麿もそのときの紀行を『花の白雲』に書いている。そののちふたたび宣長をたずね、三か月を過している。
 
(表)遠江における本居宣長門人録
入門年氏名
天明5年栗田土満
天明8年栗田真菅・鈴木書緒
寛政元年高林方朗・鈴木豊前
 山下政彦・石塚竜麿
寛政3年中山吉埴
寛政4年桜豊麿
寛政8年福田愿・金原清方
寛政10年横山秀世・夏目甕麿
 馬目玄鶴
享和元年竹村尚規・高須元尚
 飯田秀麿