高林方朗が有玉村(市当市有玉南町)の高林家八代として生まれた明和六年(一七六九)は、真渕が七十三歳で没した年である。方朗は十三歳で内山真竜に、二十一歳で宣長に入門している。彼は地方豪農の地位にあって、浜松城主水野忠邦から地方民政と、国学の発展に対する援助をうけた。【和歌会】また方朗は西遠各地で古学・古今集を中心とした講義を行なうとともに自宅では自ら催主となり、判者ともなって、しばしば歌会を開いた。来会者は遠州の各方面にわたり、このうち主なものは、竜麿・甕麿・広伴・吉埴・尚規・政彦・重年・依平・完・茂岡・元尚らの多くを数えた。この歌会は寛政初年から行なわれたが、発会のときの「高林方朗ぬしの家の歌会の序」によれば、「三月十日あまり、高林ぬしの家々に人々つどへて、しき島のやまと歌をなんものせられける」とある(小山正『水野忠邦国学の師高林方朗の研究』)。このように方朗は、地方国学の運動を推進し、古学の発展に身をもって尽くしたのである。
高林方朗筆懐紙(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵)