彼の筆力を示した著作に『二条日記』がある。これは忠邦が所司代として滞京中に召されたときの日記で、忠邦の動静を知る資料である。この間方朗は忠邦に『古今集』の講義を行なった。君臣であり師弟である両者の親密さは、文政十一年十一月、忠邦が江戸へ出府の途次、浜松杉浦本陣で方朗に、楽長三郎の人麿神像を下賜したことでもわかる。当時遠州地方で国学を修め、歌道に親しむもので、方朗と交友関係をもたないものはほとんどないといわれている。【二条日記 臣下庵詠草】著書には前記『二条日記』三巻のほか、『臣下庵詠草』七冊があり、これには短歌七千三百八首、長歌百八首、旋頭歌四首その他が収められ、他に『宮古能八千草』一冊がある。【有賀豊秋 高林豊鷹】門人には、歌・俳両道に秀で、方朗の国学精神を最もよく伝えた有賀豊秋と、古学・歌道に通じた高林豊鷹(方朗の養子、真蔭、高林家九代)の二人がその代表として挙げられる。弘化三年(一八四六)十二月十四日没、享年七十八。