竹村尚規は敷智郡入野村(当市入野町)佐鳴湖畔の竹村又右衛門家に生まれた。竹村家は堀江大沢藩の家臣であったといわれるが、入野村に住みつき、のち浜松藩主の御用係も勤めたが、代々酒造を業とした豪農の家柄である。父の方壺(ほうこ)は俳人として知られている。尚規は竜麿に歌道の教えをうけ、さらに享和元年三月宣長に入門した。のち本居大平の信望を得、文化二年九月には大平が尚規宅に数日滞在した。【竹の五百枝】著書に歌集『竹の五百枝(いおえ)』『いくみ竹』(高林方朗の清書版下)があり、旅日記『さかりの花の日記』(前述)がある。『竹の五百枝』には、大平が来遊したときの贈答歌として、つぎの作品がある。
「遠津淡海遠きところとききしかど思ひいり野の野は近かりき (大平)
心ある人に見せばや入野川秋もあはれも深き夜の月 (尚規)」
尚規は文化八年(一八一一)六月二日、三十二歳の若さで没した。
竹村尚規歌集竹の五百枝(浜松市立図書館蔵)