[幕末における遠江国学]

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 遠江の国学は、真渕・宣長の学問と、五社・諏訪両社の杉浦・森両家の歴代神官によって培われ、継承されてきた。【平田学派 杉浦大学】この両家のもたらした国学は、幕末にいたって特に平田篤胤(ひらたあつたね)の学問をとり入れた、杉浦大学を中心として動いた。大学は京都の公家(くげ)中納言甘露路愛長の次男で、縁故のある浜松諏訪社杉浦比隈満の養子となった。【報国隊】のちに遠州報国隊の中心人物として働き、九段招魂社(のちの靖国神社)の創設にも貢献している。
 【国学研究会】天保年間には遠州地方の国学研究団体は百余を数えたという。元治のころになると、浜松地方の国学の同志は国学研究会を起こし、浜松において会合を重ねた。【桑原真清 有賀豊秋】会場は主に遠州国学発祥の地といわれる、諏訪社の杉浦家であったが、ここに集まるものは芳川村参野(当市参野町)の桑原真清、井伊谷村(引佐郡引佐町)の山本金木、宇布見村(浜名郡雄踏町)の中村源左衛門・加茂備後、浜松の池田庄三郎、同庄二郎、掛塚村川袋(磐田郡竜洋町)の長谷川権太夫らであり、その指導者となったのは、高林方朗の門人有賀豊秋(ありがとよあき)である。豊秋は本居大平の門人でもあり、そのころ遠州国学界の長老として重きをなしていた。

遠江国学者分布図