名倉予何人は名を信敦、通称を重次郎といい、松窓と号した。【克明館】予何人の父は浜松藩主井上河内守に仕えたが、藩主国替に従って奥州棚倉(福島県)に移り、さらに弘化二年再び浜松に移封となったので郷里に帰り、浜松藩校克明館の教授となった。【海外渡航】予何人はまた維新の前後四回にわたり、幕府の使節に随行して清国およびフランスに渡航した。【安倍保太】このとき浜松若宮小路(当市大工町)の安倍保太は随行を許され、砲術見習を名として実は支那貿易を調査したといわれている。予何人の著書に『海外日録』『航海日録』『壮遊日録』『壮遊実録』などの渡航記および『遠江紀行』その他がある。のち予何人は東京において、明治三十四年一月没、享年八十一。
名倉予何人筆半切(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵)