[医学]

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 浜松の医家では、寛文時代に後道の渡辺玄之、享保年間に大工町の渡辺蒙庵(国学漢学参照)・田渕玄統・坂輪春育・小沢周庵(以上国学参照)などがあり、寛政から文化へかけて小沢衆甫・馬目玄鶴があらわれ、水野・井上氏時代には久保寿軒・高津元慎・村尾玄融・足立双松(蘭学参照)・賀古公斎(蘭学参照)・内田乾隈(漢学参照)三好菖軒が知られていた。医師は経済的にも恵まれるものが多く、教養にも富み、僧侶や神官とともに、文化の普及にもあずかって力があった。
 つぎに、主な医家についてのべよう。
 渡辺玄之の祖は、永純といい三河国(愛知県)牛窪に住み今川氏に属していたが、氏真の失脚後浜松に移り家康に仕え、検地奉行を勤めたという。天正十四年家康が浜松から駿府へ移るにさいし暇を請い、その後は拝領した後道の屋敷に住み医業を開いた。永純の子成秀も医師を継いだが、馬の治療も巧みであった。
 玄之はこの成秀の子で、岡本玄治に医術を学び、帰郷後は医として遠州の諸侯に招かれた。ことに浜松藩主太田資宗の信任が厚かったという。
 成秀の弟子に金原吉右衛門、玄之の弟子に勝田了玄・高坂了庵・富田玄卜(のちに玄仙という)があった(内田旭『杉浦国頭の生涯』)。富田玄卜家は塩町にあって代々玄仙をとなえ、医を継いでいる。