永井篤士祐

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 【産論翼】浜松医官の永井篤士祐は、師の賀川玄迪の著『産論翼』を、同じ門人の津軽医官樋口淳子成と協力して、安永四年(一七七五)三月に出版している。この書は産科の名医賀川玄悦の著書『産論』に、その門人玄迪が「翼」を追加し『産論翼』として刊行したもので、産科医必備の書として世に尊重するところとなった。
 【久保寿軒】久保寿軒は井上藩医で、医名を玄訥と称え、また長秋と号したが、のち秋月と改めた。藩医玄鶴を師として、自らも井上氏に仕えた。弟子に『続日本紀考証』十二巻を脱稿した村尾元融がある。文化十四年(一八一七)には前述のように、藩主井上河内守正甫が奥州棚倉へ移封と共に、これに随行していったが、のちに井上河内守正春が上州館林(群馬県)から浜松へ移封となったので、寿軒は再び浜松へ移り、そののち余生をこの地で送った。万延元年(一八六〇)十月没、享年七十五。(内田旭「久保寿軒のこと」『地方文化』一ノニ)。