賀古公斎は医を業とし、蘭学者でもあった。文政二年(一八一九)大坂に生まれ、幼時から父の友人篠崎小竹に学び、のち京都の小石玄瑞について医を学び、さらに長崎に遊び、蘭学を研究して蘭医書の飜訳を行なった。【藩医】公斎は漢詩文のほか蘭学に通じていたので、浜松井上藩士岡村黙之助義理と知り、嘉永四年(一八五一)三月、江戸への途次浜松に足をとどめ、この地の人となり、藩医を兼ねて医を業とすることとなった。【克明館】公斎は浜松藩内の学者文人と交わり、藩校克明館の蔵書購入と学制の編成にあずかった(内田旭「浜松の藩学」『郷友』第一号)。廃藩ののち東京へ移り、余生を送ったが、明治二十二年二月没、享年七十一。