浜松藩に藩校が設けられたのは水野氏時代(文化十四年-弘化二年)になってからである。
それ以前には主として藩士のなかの学者が藩の教育を担当した程度であった。【永井随庵】なかでも著名なのは青山和泉守忠雄の家臣永井随庵である。【随庵見聞録】その著に浜松領内の見聞記『随庵見聞録』(延宝八年)がある。【岩城康親】また松平伯耆守資俊の城代家老岩城善左衛門康親は歌人としても知られている(墓は成子町東漸寺にある)。【尾見父子】同家臣尾見正盛は学職も高く享保四年の韓使来聘には接待役をつとめ、その子正数は詩歌をよくし、孫正猗も石島筑波の名で知られている。【小笠原基長】なお、小笠原源太夫基長は元文六年(寛保元年、一七四一)佐野監物知堯の歴史地理書『三河国二葉松』の跋文を書いている。
【渡辺蒙庵】また、えらばれて松平豊後守資訓の侍講(じこう)となった学者に渡辺蒙庵(もうあん)がある(前述)。【飯野柏山】その門人飯野柏山は師を通じて太宰春台(だざいしゅんだい)の学風をうけ、松平伊豆守信復(のぶなお)の吉田移封に従い、宝暦二年(一七五二)吉田において藩学時習館の創立に参与してその教授となっている。