克明館記

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 そののち公斎は浜松に移り(前述)、黙之助のはからいで藩に仕え学制編成に参与している。公斎のつくった「克明館記」をつぎに記す。
 「遠(江)の浜松学あり、名ずけて克明館と曰ふ、邑の高処に在り、市街を下瞰す、下より仰望すれば粉壁映射す、巍然として城櫓の如し、その間は則ち、斎堂・講堂・棲士の寮・蔵書の庫より、剣槍・弓銃・練武場に至るまで、皆具に備はる、先封水野公創立する所、某館と名ずく、水野侯封を他に転ず、而して今の先公(正春)上(上州)の館林よりこの邑に移る、先侯は博雅、文を好む、親しく尚書中の語を選び、改めて命ずるに今の名を以てす(克く俊徳を明にすという語より克明の二字を撰ぶ)、盖し臣僚がこの館に入り、克くその徳を明にするを欲するなり、先公幾もなく世に即(つ)く、今の公(正直)爵を襲ふ、能く先公の志を継ぐ、乃ちその欠くるものを補ひ、その廃するものを脩め、儒官をして館務を司どらしめ、又闔々其内に臨み、親しく能否を斯(ここ)に試む、闔藩競ひ起り、翕然として学に入り、各その徳を克く明にせんと欲す、盛なりと謂う可し(中略)。今侯の家、世々幕府の老職に列し、而して今公弱冠より俊邁なり、夙に望を天下に負う、異日果してその任を履(ふ)むや必せり、而してその股肱耳目となり、能く公の徳望を翊賛し、以て利沢を天下に施すもの、果してこの克明館より出ることも亦必せり、謹み以て之を記す」と述べている。

克明館配置図 安政元年浜松城の図 部分