【清長】浜松に俳諧がはいってきた年代は不明であるが、寛文二年(一六六二)西山宗因が奥州へ旅した帰りに、門人松山玖也とともに浜松の清長(森清長、素封家)の家で俳諧の連歌を詠んでいる。『後撰犬筑波集』によると、このとき宗因は「遠江の国清長の家にて玖也まじはりての三吟に あふ友鶴のえんもなかき日にと候ひし句に梅法師(宗因) さらは/\まかりかへるの声たゝ」とつけている。また同七年の俳書『続山井(ぞくやまのい)』に、「宗因玖也来りて連俳の後に 歌の父花の兄御よ難波人 清長(浜松)」とあるのはこのときであろう。
清長の名はこれに三十句ほどみえるが、清長は宗因の門人であったろう。【忍草】浜松の琵琶法師杉本勾当左一(寛文三年四月没)の追悼句集『忍草(しのぶぐさ)』は清長の選になったもので、浜松最初の出版句集であろう。
寛文四年の『阿波手集』に、「五体ふく春の日に作る雪仏 一友(浜松)」とある。これをみると浜松の俳人は清長のほかにもいたことがわかる。
【鬼貫】貞享・元禄時代になると松尾芭蕉(まつおばしょう)(一六四四-一六九四)によって蕉風が統一された。上島鬼貫(かみじまおにつら)(一六六一-一七三八)も同時代の俳人として蕉風の影響をうけている。上島鬼貫は元禄三年(一六九〇)九月、遠江を通ってつぎの文を残している。
「白須賀こえて荒井(新居)につく、浜名の橋のあとなつかしく ことしにて浜名の橋は幾秋そ 舟より前坂(舞阪)にあかりてこよひは浜松に宿す、二十七日天竜川を渡る」(『鬼貫句選』)
芭蕉やその高弟が貞享・元禄のころ、浜松を通過しているが、そのときの句は知られていない。
このころの浜松には蕉風系の俳人が少なく、元禄十四年の句集『きれきれ』につぎの句が見えるのみである。
「花に咲れ瓜をくはへて帰る雁 水月女(浜松)
半蔀に顔ならべたりいかのほり 李士(志都呂)」