葉隠堂只木

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 【俳諧 川柳 笠付】宝永元年(一七〇四)・同二年に浜松の葉隠堂只木(はがくれどうしゅぼく)が点者(てんじゃ)(撰者)となって尾張・三河・遠江・駿河から俳諧・川柳(せんりゅう)・笠付(かさづけ)を募集し、その中から五十句を印刷している。そのうち二十七句は遠江の掛川・中泉・新貝・大原など十三か所からの出句で、浜松とあるのは、つぎの一句のみである。
 
「日に五つ浮藤上る御着る物 笑友(ハママツ)」
 
 ほかに浜松の士白・杉山・樹泉が名を連ねている。
 【はまづと】只木は同二年三月、京都の福田鞭石(ふくだべんせき)・丹波亀山(亀岡市)の松風堂伽夕などの社中と歌仙(五七五、七七・五七五、七七と三十六句つづいた俳諧)をまいている。句集『はまづと』はこれをまとめたもので、おそらく『忍草』につづいて浜松で出版された句集であろう。
 【俄雨】また同年九月、只木は浜松の紅梅軒濤鷗と協力して『俄雨』を版行している。小倉百人一首の頭五文字を笠とする笠付百七十五句、普通の笠付二百四十二句、四季別発句(ほっく)四百六十二句が集録されているが、大部分は遠江・三河・西駿の人々の句である。このころの地方版としては類のない珍しい句集である。
 仏教的な習俗を記した『考守義』の奥書に、「享保二祀次丁酉五月 遠陽浜松泉松山別野於梅竹亭 釈深阿誌焉 同所中村宇兵衛只木開板」と記されているところをみると、只木の本名は中村宇兵衛といい、宝永ないし享保年間の浜松の富豪で、文化に理解の深い人と思われる。
 【知石 孔雀丸 あふみ八景】京都の俳人鈴鹿知石(ちせき)(福田鞭石の門人、寸松堂と号す)が、享保年間に諸国から俳諧・川柳・笠付などを募集、その入選句を印刷した享保七年の『孔雀(くじゃく)丸』、同九年の『あふみ八景』などをみると、遠江からも多数の人が投稿している。
 
はまづと
   鳥うたふ比家を出てすゑをおもへは
 咲かかるこころの花や六十里   只木
   塩見坂にて
 東風吹くや浪の底ゆく漁師舟   只木
俄雨
 秋の田の歌は百首の三番そう   浜松  和香
 春すぎて夏いそがしきそうめんや   同   雪上
 夏の夜は蛇かとて飛ぶ繩切れ   市野  一江
孔雀丸・あふみ八景
 ほんのふの牽牛星や逢瀬川   遠州西 十八公
 見物も拳をにぎる御前的   同石田 招月堂
 和歌の道一以て貫之古今の序   同ツルミ 亀鶴
笠の恩
 裃の花見や年の初桜   六々庵 巴静
 白萩や花には霜を置まどひ   浜松  蓮清
 隠るゝに草は短し雉子の声   同   東周
 水の影こほれて流す柳かな   同   浮月