蓼太の来遊

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 【犀ケ崖の句碑】芭蕉以後の俳諧はその門人らによって幾派かに分かれた後は、しばらく形式にはまったものが多かったが、天明のころ与謝蕪村(よさぶそん)(一七一六-一七八三)が出て新しい境地を開いた。このころ江戸の雪中庵(せっちゅうあん)三世をついだ大島蓼太(おおしまりょうた)は蕪村とともに天明の五俳人といわれた一人で、多くの俳書を著わすとともに全国各地を行脚吟行して俳諧を指導した。遠江へは宝暦・明和(一七五一-一七七一)のころ来遊し、雪門の拡がる端緒となった。当時浜松に蓼堂・玄彦(のち徐生と改む)、森町(周智郡)に蓼主・菊平、掛川(掛川市)に四明、金谷(榛原郡金谷町)に月哉などの俳人があったが、みな雪中庵系の人たちである。「横にして見るや浜名の横霞」「岩角にかふとくたけて椿かな」これらは蓼太の句で、後者は元亀三年(一五七二)の三方原の戦いで知られる犀ケ崖(さいががけ)をよんだものである(いま犀ケ崖にその句碑が建っている)。

芭蕉柳の句碑(浜松市紺屋町 蓮華寺)