烏明の来遊

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 【松露庵随筆】江戸の俳人松露庵烏明は天明三年(一七八三)春遠江に来遊し、笠井の亀潤亭を訪問して同門の百洲・長川らと歓談した。そののち、浜松宿伝馬町の宿で瞑鴻亭の雅君・千砂・竹保・柳保らと風流の交りを尽くし(『松露庵随筆』)、翌日馬郡(まごうり)(当市馬郡町)の藤田去草宅に宿泊して、「常盤なる石にみとりや苔の花」の一句を書残して西に向かった。この旅行記をまとめたものが『松露庵随筆』である。
 雅君は名を中野文太夫といい、『松露庵随筆』にある智丸はこの人であろう。千砂は肴町の川上助九郎、去草は藤田権十郎(一七五二-一八〇八)である。
 天明五年九月、永田白輅・吉田玄彦(徐生、浜松藩士)・蓮華寺(当市紺屋町)住職鳥居柳也・入野(当市入野町)竹村方壺の四人は、毎月十二日の芭蕉忌に歌仙を行なうことを申し合わせ、九月十二日から天明八年四月まで月並会を催している。この四人は当時の西遠屈指の俳諧宗匠といわれ、とくに白輅は俳諧の連歌に通じていた。会場は四人の庵を順に廻り、去草・是々堂知白(当市神明町、沢井佐助)・柴田虚白(浜名郡湖西町白須賀)・袴田斗六(当市入野町)らが時々加わっている。【このような歌仙の月並会】このような歌仙の月並会が、四年にわたって行なわれたことは、きわめて珍しいことである。
 【柳也】柳也(号を一棺亭という)は紺屋町の玩照山蓮華寺の住職で、俳諧を蝶夢に師事し、立花・生花などもたしなんだ。文化九年(一八一二)十月、六十八歳で没した(久野仙雨『浜松句碑めぐり』)。
 
其葉うら
 更てから家鴨仕舞ふやけふの月   薬師  一和
 もう闇と捨てられぬ夜や虫の声   松しま 白兎
松露庵随筆
 馬宿や脊戸一ばいの柿の花   笠井  百洲
 夕凪や蝶しつまりて小雪ふる   同   長川
 麦蒔の日落ちて一畝二畝かな   同   長川
 とむほうや畑は粟殼稗のから   同   左光
 水口の分量見へて青田かな   浜松  智丸
 うき草や鮒の泡ふく日のうつり        千砂
 七夕にことしの寺子いろは哉   馬郡  去草

(表)柳也の一棺亭で挙行した初会の歌仙
九月十二日於一棺亭興行
  懐旧之俳諧 
  寄合て夜舟に似たる時雨哉玄彦
   帰咲よと花に啼く鳥白輅
  棟上の上し棟の香目出度て貞波
   ちさい男と人は云ふなり古明
  澄のぼる月に夕餉の鍋の音柳也
   葉の赤らみて透し萩垣方壺