天保年間における雪の県連の指導者は、内野の甘仙・有玉の烏玉・下大瀬の夷白で、このほかに小松の村尾帯翁・僧莫奴、下石田の鶯居などを中心として、半田・漆嶋(うるしじま)・前嶋・天王新田には同好者が多く、時々高畑・笠井・市野・天王・松小池の地名がみえる。とくに天保十一年の『歳旦歳暮』には大瀬・前嶋・小松など十一か所三十三人の六十六句が記されていて、主な人は、甘仙改守静・夷白・旦哉・百之・省我などで、旦哉は名倉幸次郎といい、安政三年に没し、省我(天王新田の庄屋中村省吾)は明治二十四年、七十七歳で没した。
【夷白 朝日園社中】夷白(挧木要右衛門利長、一七九七-一八六八)は下大瀬村(当市大瀬町)栩木に生まれた。幼年から俳諧の道に入り、はじめ薬師の小枝来圃に学び、師の没後(天保四、五年)江戸の雪中庵対山の門に入り、のも岡崎の鶴田卓池についたものと思われる(『浜名郡史』)。【掛川嵐牛】夷白には門人も多く、社中には大瀬に帆丘・颿丘・民古・居蝶、前嶋に五風・閑歩・金童・亀毛、笠井に百之・旦鶏などがあり、掛川在の伊藤嵐牛とともに遠江俳壇の二大家と称せられ、明治期の浜松俳壇に大きな影響をおよぼした。【中善地十湖】とくに中善地(当市豊西町)松島十湖は晩年の門人であるが、明治・大正期にもっとも活躍している。
【発句太根帒】夷白には別号が多く、子明・朝日園・年立庵・十花・男池など二十を数え、俳諧のほかに書画にも堪能であった。また古俳人の句を集めて『発句太根帒』五巻を著わし、天保九年十月の芭蕉忌には知友・門人らと俳諧の連歌を作っている。明治元年(一八六八)九月十二日没。下大瀬清岩寺に葬られた。