弘化年間の雪の県連

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 【芭蕉句碑】天保十五年(弘化元年、一八四四)ごろ「草臥れて宿かる頃や藤の花」の句碑が下石田(当市下石田町)の庚申堂に、弘化二年には「ほろほろと山吹ちるか滝の音」の句碑が平口(浜北市)不動寺参道に建てられた。いずれも芭蕉の句である。弘化二年の碑は平口方面に作られた雪の県連の左弄・一牛が同所の芦山、内野の守静(甘仙)・文哉などの協力を得て建てたものである(塚本五郎『静岡県にある芭蕉の句碑』)。
 弘化三年の『歳旦歳暮』をみると雪の県連は二十か所三十八人の八十五句が記されており、天保・弘化年間が雪の県連の最盛期であったと思われる。
 しかし、弘化五年の『歳旦歳暮』をみると、雪の県連は内野・平口・尾野(浜北市)方面の二十七人五十句が記され、別に方蠡を中心とする小松・木船(以上浜北市)など十九人の句は伏兎庵(村尾方蠡の別号)連として、また夷白を中心とする大瀬・半田・有玉・石田(以上当市)など十一か所三十一人の句は丹頂楼連として記されている。雪の県連の指導者横田守静か没し(弘化四年三月)てから分裂したと推定される。
 天保・弘化年間の西遠地方における俳壇を知るために、この間に江戸の雪中庵で出版した『歳旦歳暮』八冊から俳人数をまとめたのが次ページの表である。
 寛政から化政度へかけて三大家と称された一人に井上士朗(しろう)があり、その門に学んだ鶴田卓池(たくち)は(はじめ加藤暁台(ぎょうだい)に学ぶ)、芭蕉の正風を唱えた東海有数の俳人である。遠江では掛川在の伊藤嵐牛、入出(浜名郡湖西町)の久保田筌露、新居の飯田為中などが卓池について学んでいる。
 
脇起の俳諧(天保九年十月、芭蕉忌)
 しくるるや田のあら株の黒む程芭蕉
燃やす木の葉の匂ひ高々夷白
 馬子も新糸のうちはすなほにて芊夫
 上すべりする町の入口颿丘
 すんなりと月の出てゐる昼の空蔕翁
 仲間をさそふ鯊のつれ時烏玉

地名人数句数
   
浜松2574
大瀬1973
小松1946
内野1545
石田1356
志都呂1142
半田1034
大久保984
939
平囗924
有玉813
薬師722
前嶋634
漆嶋616
木船610
半場69

歳旦歳暮(弘化五年)
 いねつむや春とこころのゆるみそめ   丹頂楼連石田 応居
 結かへる井戸の垣根やとしの暮   大瀬     嵐里
 着替さす袂から出る土筆哉   笠井     燕石
 よい春か来たと雀の友はなし   有玉     烏玉
 走りきて渦にまかれぬ落椿           夷白