柳也と月並句会

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 【会日運座】弘化・嘉永年間(一八四四-一八五三)に、浜松紺屋町蓮華寺の住職鳥居柳也を催主として月並句会が行なわれた。選者は半閑室如瓶である。現存の刷り物によると各月に投稿した句数は七百余から千四、五百に達している。また当日句題をだして出席者にその場で作らせ、これを如瓶が直ちに採点している。これを会日運座という。上表は現存の刷り物(八か月)を表にしたもので、投句者に配布したものであろう。この刷り物にみられる入選句は浜松の者が非常に多く、つぎに志都呂方面が多いのは下山閑里の影響であろう。近郷の船越・金洗・篠原・高塚・宇布見・掛塚とつづき、中泉・横須賀(磐田郡)・上州館林(第六章第六節参照)の句も目立つ。つぎに主な句を記す。
 
 「炎天の水軽々と流れけり        ハマヽツ 如聾
  水くさき寺の料理や蓮の花       ハマヽツ 諸水
  昼はまだ日傘の見ゆる野菊哉      西鴨江  南亭
  ちるさくら人は月日に追はれけり    社中  よし也
  月の出るまては萩見るむくろ哉     浜松  如雪女
  暮るまてよき日当りや橋むしろ     舟コシ  諸山
  兀山も木山も笑ふあした哉       サイ主  柳也
  三番茶や空の初音も摘そゆる      判者   如瓶」
 
 【俳諧の庶民化】嘉永年間の浜松俳壇の特徴は、町民・百姓にいたるまで俳諧がよまれ、天保以前には見られないほど庶民化されたことである。
 【良也 倍賢】催主の鳥居柳也は天明年間の俳人柳也の孫にあたり、弘化・嘉永年間蓮華寺の住職として生涯俳諧に親しんだ。如雪女とあるのは柳也の妻である。その子良也(養子、嘉永七年蓮華寺住職となる。鳥居法沖、のち曇心と号す)も俳諧・挿花をよくし、明治二十六年九月九日七十三歳で没した。南亭(一八二五-一八九五)は名を藤ケ谷嘉兵衛倍賢といい、西鴨江(当市西鴨江町)の庄屋で、別号を浩々処と称したこの地方の宗匠である。
 
年号月別枚数応募句数入選句数運座入選句数備考
弘化410月分3108015842200大根・くわいの絵あり
嘉永2月分2705622082貝をいれた籠の絵あり
 4月分275011315128 
 6月分214009518113 
 7月分3150012562187 
42月分2不明581876 
 3月分2562884 
 9月分2572080