柳塚連

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 万延元年(一八六〇)の雪中庵月並句会によると、このころ浜松に柳塚連として桐雨・魚交・芋谷・如鶴子・柳也などがあり、兄弟庵連として鼠来・可然・諸水・巴竜・雪丸・志雲など合わせて三十余名、都田に鹿年・寿山らがある。
 魚交は板屋町の園田すゑ女、巴竜は稲垣仁八郎といい、紺屋を業とし、のち洗心亭坡竜と号した。幕末ごろ志都呂第一の宗匠であった。明治二十一年没(七十余歳)。
 【鼠来 仁庵】鼠来は名を堀川幸七、文化十五年(文政元年、一八一八)四月八日早馬に生まれた。夷白・嵐牛・春湖に俳諧を、小沢訒庵(浜松宿連尺に住む)に書を学んだ。別号不老亭・不争軒・青々処。井上藩士であったが幕末の廃藩と病のため財を失い、本魚(もとうお)町・平田町と移り、のち竜禅寺(当市龍禅寺町)に寄住して、世俗を離れた生活をした。晩年自分の句を短冊にしたため、魚屋で魚と交換したという逸話を残している。また維新以後日夜句を作り、その草稿数千句に達したという。【鼠来発句集】明治十九年俳友松島十湖はその句百余句を選んで『鼠来発句集』を出版した。鼠来の句は秀でたものが多く春湖門の俊秀として知られている。明治二十年七月三十日没し、松林寺(当市鹿谷町)に葬られた。【鼠来句碑】明治十九年に建てた「まとうつや秋をさたむる夜の雨」の句碑はいまも竜禅寺の前庭にある(塚本五郎「遠江にある句碑」『遠州郷土読本』)。
 鹿年(村松半三郎、明治末年九十余歳で没)は都田第一の宗匠で和歌も嗜み、松島十湖と交友が深い。
 
(万延元年、雪中庵月並句会)
 うめに月すこし明たる障子かな   浜松柳塚連 桐雨
 ひはり鳴やこのころとけし草の霜   同     魚交
 うくひすの来る木も持て住古す   同     芋谷
 あさ凪や日はうらうらと梅薫る   同     柳也
 雨雲に影のはさまるほたるかな   浜松兄弟庵連 鼠来
 うくひすの鳴にほね折風の中   同      可然
 はる風や並□細江の□曳   同      巴竜
 雲きりの中におくありこけ清水   遠ミヤコタ 鹿年