蒼山

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 江戸末期に為山・春湖と共に三大家と称せられた人に摩訶庵蒼山(まかあんそうざん)がある。蒼山(遠藤氏、通称慎七)は文政三年(一八二〇)赤湯(山形県)に生まれ、江戸に出て蓬窓風外に学び、のち桜井梅室についた。文久二年、京都に摩訶庵を結んだが翌三年、見付(磐田市)の烏谷門人らの招きに応じて庵を見付に移した。これはわが亡きあとは蒼山に従え、という烏谷の遺言によったのである。【木潤】しかし、その後安間木潤(当市安新町)宅に落着き、付近の同好者を指導した。また上飯田(当市上飯田町)の榎谷守考、下石田(当市下石田町)の小池古心の家にも逗留し、都田(当市都田町)・浜松など巡回して俳諧の普及につとめた。【越の雪】蒼山が越後の契史とともに著わした俳諧の連歌を記した『越の雪』(慶応元年刊)は連歌の模範として識者間に定評があった。【ひくまののにき】また慶応二年(一八六六)『ひくまののにき』を編した。【守考 甘谷】明治二年正月十九日、古心宅で没した(五十歳)。蒼山が遠江に滞在した期間はわずか六年ほどであったが、木潤・守考・意秋・甘谷など優れた門人があった。【蒼山句碑】明治二年、普伝院(当市安新町)境内の稲荷社に蒼山の句碑が建てられ、「さすかたはなくてたゝ飛ほたるかな」と刻まれている。
 木潤は文政十年(一八二七)天王(当市天王町)の竹山勝平治の子として生まれ、名を台(うてな)という。長じて安間家を嗣いだ。蒼山に師事して句境を深め、明治年間における遠州屈指の巨匠といわれた。別号富月園、晩年米園と改めた。【金光集】木潤には古稀の賀集『金光集』『みちしをり』など数冊の著書があり、門人も多い。【木潤句碑】早出町薬師寺前につぎの句碑が建てられた(明治四十一年五月)。「天地(あめつち)や実(げ)に相生の松の声」。大正五年(一九一六)三月二十三日没。
 【甘谷】甘谷(久米彦十郎、佳菊庵)は半田(当市半田町)に生まれ、茶道・書道にも秀で、門弟が多い。明治四十二年(一九〇九)六月二十八日、七十歳で没した。著書に『六の花』があり、同四十四年三月には『甘谷居士追悼集』が出版されている。また明治三十六年十一月には、半田松岳院に甘谷の「花の香ややまとこころにさす日影」の句建が建てられた。
 【守考】守考は上飯田(当市飯田町)の人、榎谷長右衛門といい、俳号は白紅庵。明治十九年三月三日没、同所の竜谷寺に墓がある。
 このように幕末から明治初期における遠江の俳壇は、当時の江戸俳壇と同様にその作風は民間に理解し易いものが多く、ますます普及したのである。
 
ひくまののにき
 秋の野て逢てのけたりはつ時雨蒼山
   ひくま坂
 夕暮やくらかけ豆も引時分甘谷
 野も山も末枯てたたひとつ松木潤
   千人塚
 ひとつづつ耳にこたへて露の音守考