木潤は文政十年(一八二七)天王(当市天王町)の竹山勝平治の子として生まれ、名を台(うてな)という。長じて安間家を嗣いだ。蒼山に師事して句境を深め、明治年間における遠州屈指の巨匠といわれた。別号富月園、晩年米園と改めた。【金光集】木潤には古稀の賀集『金光集』『みちしをり』など数冊の著書があり、門人も多い。【木潤句碑】早出町薬師寺前につぎの句碑が建てられた(明治四十一年五月)。「天地(あめつち)や実(げ)に相生の松の声」。大正五年(一九一六)三月二十三日没。
【甘谷】甘谷(久米彦十郎、佳菊庵)は半田(当市半田町)に生まれ、茶道・書道にも秀で、門弟が多い。明治四十二年(一九〇九)六月二十八日、七十歳で没した。著書に『六の花』があり、同四十四年三月には『甘谷居士追悼集』が出版されている。また明治三十六年十一月には、半田松岳院に甘谷の「花の香ややまとこころにさす日影」の句建が建てられた。
【守考】守考は上飯田(当市飯田町)の人、榎谷長右衛門といい、俳号は白紅庵。明治十九年三月三日没、同所の竜谷寺に墓がある。
このように幕末から明治初期における遠江の俳壇は、当時の江戸俳壇と同様にその作風は民間に理解し易いものが多く、ますます普及したのである。
ひくまののにき | |
秋の野て逢てのけたりはつ時雨 | 蒼山 |
ひくま坂 | |
夕暮やくらかけ豆も引時分 | 甘谷 |
野も山も末枯てたたひとつ松 | 木潤 |
千人塚 | |
ひとつづつ耳にこたへて露の音 | 守考 |