応挙と文晁

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 ここに形成された画壇の指導者ともいえる村松以弘らは天明・寛政の二大巨匠である円山応挙・谷文晁の影響をうけて、つぎの半香・顕斎時代を招来したともいえる。こうして遠江は南画全盛へと展開して、終りに円山派は微々たるものとなったが、このころ(掛川地方の画壇成立のころ)にはみるべきものがあった。
 【鉄支】応挙と遠江との関係はきわめて少ないが、応挙の門人に中泉(磐田市)の山田鉄支がある。【応哉 芦岸】鉄支の子応哉は応挙の孫応震に、養嗣子山田芦岸は長沢芦雪の子芦洲に、また以弘・月嶂および佐倉(小笠郡浜岡町)の歌人水野真邦(佐倉真邦ともいう)らは応挙の門人である伊勢の月僊に教えをうけている(中道朔爾「遠江画界の展望」『遠州郷土読本』)。