【真木明雅と門人】浜名湖西岸の鷲津村古見(浜名郡湖西町)真木新六明雅は寛保・延享(一七四一-一七四七)のころ、名古屋の和算家葛谷実順(関流二伝松永良弼の門人西塚重勝の高弟)に学び、関流の見題・陰題・伏題の三免許を得て帰郷した。山崎(浜名郡雄踏町)の豊田自適・吉田(豊橋市)の斎藤一握らは明雅について算術・天元術・点竄術またはそれ以上の算法を学んだ。また天明六年(一七八六)の秋、有玉(当市有玉南町)の国学者高林方朗も入門している(塚本五郎『遠江の和算について』)。
初期の和算家は難問を考えて正解を得た場合、これを額面に記し、神社・寺院に奉納して算法の上達を祈ったが、のちには難問の解けたことを世人に誇示するため、参詣人の多い社寺へ額を掲げるようになった。【算額】また算法の解答を示さず問題のみを記して世の和算家の知識をこころみる算額もある。これを見た和算家は競ってその解答を作り、解術を額に書いて前の額の傍に掲げ、前者に答えたものである。
関流四伝藤田貞資が寛政元年(一七八九)に出版した『神壁算法』は、その門人達が寺社に奉納した多種多様の算題をまとめたもので、こうした問題集はこれが最初の出版書である。この『神壁算法』には明和四年(一七六七)二月、利町諏訪明神に掲げられた算題が載せてあり、解答は水野喜氏とある。問題は五次方程式を解いて斜辺の値を得たとあるが、和算では普通算木を用いて洋算のオーナーの方法を解いている。【水野喜氏】水野喜氏は藤田貞資の高弟で五嶋村の人と推察される(塚本五郎「静岡県にある算法の額」『私学の広場』第三号)。
【豊田自適】豊田条右衛門自適は山崎(浜名郡雄踏町)の名家江馬九右衛門家の人で(同家は一時豊田姓を称した)、明和・安永のころ算法を真木明雅に学び、安永二年(一七七三)七月、見題・陰題・伏題の免許状を授けられた。また『関流算法解伏題玄訓』『円率起源』『順逆維乗換式』など多くの伝書も授けられている。江馬家にはこの外『算法統宗』『新編算学啓蒙』『活要算法』など優れた算法書三十五種五十九冊が所蔵されている。自適は天明八年(一七八八)四月十一日に没し、同所安寧寺に葬られた。墓石の両側につぎの碑文が記されている。
「天之賦命有涯而其徳無窮矣、吾師自適先生者深極関門数学以之推之無物不通、故慕其術者綿々無窮也、時行年七十有二、遂致命於天、嗚呼雲聳水長。
門人 浜松侍臣 永田行兌誌」
【斎藤一握】斎藤一握(通称九郎左衛門、名信芳)は、寛保三年(一七四三)三州吉田(豊橋市)に生まれ、同藩士渡辺半蔵および鷲津の真木明雅に算法を、金谷(榛原郡金谷町)の西村白烏・京都の新井白蛾に易学を学んだ。また天文を研究し、安政年間以後算法・易学・天文を教えて各地を巡歴した(『一握先生年譜』)。つぎの表は浜松地方における一握の門人である。【石塚司馬右衛門】表に示した石塚司馬右衛門(文政二年没)は細田村(当市協和町)の人で、国学者石塚竜麿の兄にあたる。堀江城主大沢侯に仕え、近習格五十石三人扶持を得ていた。【池田庄次郎】また池田庄次郎は笠井村(当市笠井町)に生まれ、名を勝臣という。俳諧をよくした池田庄三郎(市隠舎百洲)の弟である。
入門年月 | 村名 | 門人名 | |||
算学 | 安永 | 9. | 9 | 浜松 | 永田藤太夫 |
寛政 | 8. | 正 | 細田村 | 石塚司馬右衛門 | |
〃 | 8. | 9 | 白洲村 | 松尾源松 | |
〃 | 11. | 9 | 笠井村 | 池田庄次郎 | |
〃 | 11. | 9 | 貴平村 | 内藤文左衛門 | |
〃 | 12. | 3 | 富塚村 | 鈴木善蔵 | |
天文 | 安永 | 9. | 9 | 浜松 | 馬目玄鶴 |
〃 | 9. | 11 | 〃 | 小池吉右衛門 | |
寛政 | 7. | 9 | 〃 | 中村五郎七 | |
易学 | 安永 | 5. | 11 | 浜松 | 稲垣仙庵 |
寛政 | 12. | 11 | 市野 | 市野吉兵衛 |